第7回世界選手権2009 NZワールド サポート日誌(抜粋) 飯島賢司 

NZワールド サポート日誌(抜粋)

Sailing Manager 飯島賢司

? 選手7名とサポーター8名、計15名は、12日午後にロトルア入りし、残りの5名は、1日遅れて13日午後にロトルアに到着した。

 13日、先着組はホテルで朝食を済ませ、徒歩で20分、ウォータースポーツセンターにおもむき登録の手続きをして、ネームプレート、イベント・ブックレット、チケット、帽子、マオリの篭などを受け取った。

 登録を済ませると早速練習である。我々は、ワンボックスカーに乗せてもらってレース艇の置いてある場所まで移動した。艇の置いてある場所は、本部から車で7,8分のスルフールポイント(別の地図を見るとモッタラポイントと書いてある)と呼ばれている岬の先端にあった。アスファルト舗装したフェンスに囲まれた艇置き場にノエレックス25が21杯、移動用の船台に載せられ、真新しいセールがセットされて整然と並んでいた。プレハブの倉庫とトイレの建物のほかは何もなく事務所らしい建物もなかった。

 ノエレックス25はクルーザータイプのセーリングボートであるが、マストを倒し、センターボードを引き揚げ、ラダーを折り曲げて車の付いた船台に乗せると自動車で移動することが出来る。この大会では、こうしてほとんどの艇をノエレックス25のメンバーが各地からここへ運んできたようである。

 初日の練習、B2クラスは秋山さん不在であったので、頼まれて代理を務めることになった。選手4名と現地ニュージーランドの運営スタッフ1名が陸上で艇に乗りこみ、車に牽引されて傾斜地をバックして水面に艇を浮かべ、その後センターボードを下ろし、ラダーをまっすぐにして、船外機を立ててエンジンをかけて少し走ったところで運営スタッフの一人は、迎えに来たボートに乗り移るという段取りであった。我々の艇はラダーがきちんと降り切らなくて少し斜めの状態であったが、何度も試みたが直らないのでこのまま練習をすることにした。風が入ってヒールするとティラーが重いと杉山さんはなげいていた。

 練習が終わると艇を陸上の元の場所に戻すのであるが、そのために水上にいるときに先ほどの運営スタッフが乗り込んできた。我々の艇に乗り込んできたのは、ひげをはやした好々爺である。歳を聞いたら65歳だそうである。このようなリタイア組と思われる年配の運営スタッフを多く見かけた。若い人は仕事をしているのだろうか、あまり見かけないような気がした。

 一艇々々陸に揚げていくのである。手際よくやっているが、杯数が多いので時間がかかり、かなり待たされてしまった。艇を係留する設備はなく、スロープの脇に簡単な桟橋があるだけなので、レースの期間中、毎日この艇の揚げ下ろし作業が繰り返された。

 翌14日は練習日で、レースは15日から始まった。15日のレースは観覧船から見たが、風向が安定しないのであろうか、ずいぶん待たされた。観覧船はインフレータブルボートに幌をはったもので、貸しボートで半日で一人30ドル取られた。操縦は、ノルウェイのサポーターの女性が交代でしていた。低い位置から見ているので、レースの模様はわかりにくかった。

 3日目、17日(火)予定より1日早めてBSI(Blind Sailing International)総会が行われた。日本チームから安達理事長以下6名が出席した。会議の始まる前に、ニュージランドのドン・メイスンさんが我々の所に来て、「次の日本の大会に皆で行きましょう」と日本語で言われたのにはびっくりした。会議は全て英語で話されて私には理解しにくかったが、おおよそ次のようであったと思う。

 チェアマンを勤めるアーサー・オニール氏が経過説明をして、その後でBSI代表者がニュージーランドのドン・メイスン氏に交代することを告げ、出席者の賛同を得た。そして、ドン・メイスン氏からアーサーオニール氏にマオリの彫り物の記念品が贈られた。ディスカッションに入って、イギリスの女性、B1ヘルムスのVickiさんからクラス分けについて意見が出され、かなり長く議論した。私にはどんな内容か理解出来なかった。

 総会は2時間15分位続いたが、その最後の20分位のところで次回開催国の件が取り上げられた。我らのチームのラルフさんが日本の取り組みについて説明した。使用艇は、J24,ヤマハ23,アクタスを考えていて、開催地はシーボニア、葉山、浜名湖、琵琶湖が候補であること、時期としては2012年はオリンピックがあるので2013年になるなどを話した。その後、安達さんが日本では検討段階で、開催するという決議はなされていないと発言した。会議では他の開催国の話は一切なかったし、ドン・メイスン氏を始め出席者は日本開催を歓迎しているようであった。

 19日、ノエレックス25の予備艇に乗せてもらってレース観戦をした。この艇のオーナーのご厚意である。オーナーはいつもはオークランドの南の方の海で乗っているということであった。ヤマハの船外機が載っていた。具合が良くて気に入っているそうである。

 B2クラスの10か11レース目を観戦した。間もなくフィニッシュという場面でニュージーランド、イギリスに続いて、日本とカナダが競っている。どちらが先行しているか我々の位置からはわからない。カナダ艇が日本艇に横から大声で叫びながら急接近し、日本艇は逃げた。日本艇はプロパーコースを進んでいたように見えたので、この時何が起こったのかわからなかった。結果、カナダ艇、日本艇の順位であった。この時点、日本とカナダは1点を争うレースを展開していたので、このカナダの行動に、勝負に対する強烈な闘争心を見た思いがした。
B2クラスは、最終日までにカナダをぬいて3位になり、銅メダルを獲得した。立派なものである。

 最終日、全てのレースを終了し、ノボテルホテルで表彰式とパーテイが行われた。全員、ジャケット・アンド・タイで集まってきた。ロビーで待っている時に、カナダチームのメンバーとエキサイティングでしたねと話をした。太めのブラインドクルーがコックピットが狭くて大変だった、怪我をしたとスボンをめくって傷を見せてくれた。確かに、コックピットには船外機が横たわる大きな穴があいていたし、キャビンの屋根とブームの間は狭かった。マストの前にはセルフタックのレールがあったし。そう言えば、日本のB1のサイテッドスキッパーは靴を落としたと言っていた。

 楽しい表彰式であった。式が始まって間もなく、突然、我らの仲間の山賀さんの名前が呼ばれた。笛の演奏をしてくれというのである。山賀さんは予想していたのか、笛も用意してあった。日本の何という曲かわからなかったが、感動的な演奏であった。B2クラス、銅メダルはうれしかった。日本への大きな土産が出来た。団体戦のスコードロンカップでは、アメリカをぬいて、ニュージーランド、イギリスに続いて3位になることが出来、私までも記念のマオリの彫り物の盾をいただき、私の宝物になった。

 皆さん、本当にありがとうございました。