2001年度レポート
文 斎木英夫
校正 村松宏美と戸口孝則
JBSAの皆さん、今年もお世話になりました。2001年度の浜松からの活動レポートです。今年の担当は全日本でフォンターナで活躍したと本人は思っている、齊木と村松です。それと、戸口さんにお手伝いをお願いしました。ところで、支部としては浜松なの?浜名湖なの?名古屋の方々も沢山いるし?箱根の関所から西だから関西支部?関西だと大阪をイメージするし、東海支部?中部支部?大きく分けて西日本支部?まぁどうでも良い事ですかね。
さてさて、本題です。実は突然のレポート担当になりまして、過去はかなりかなたに行ってしまって、記憶の外となってしまいました。ですので、思い出せる範囲で勘弁してください。重い腰をあげ始めたの確か3月24日だったと思います。そして、6月になるまでは重い腰も本腰にはなってなかったですね。ブラインドの方々も中々集まらずに、ブラインドセーリングの練習を口実に浜名湖に行っていた様な気がします。
「よっこらしょ」って腰をあげたのが、5月16日の午後7時です。飯島さんの会社に集まって、全日本に向けてのチーム結成、練習スケジュールの打ち合わせを開始しました。この後から全日本までが長かった様な短かったような。要するに1年間の活動がこの4ヶ月に凝縮している訳です。この時の飯島さんのメールでのコメントは「本番まで4ヶ月しかありません。なるべく早く練習を始めたい。」です。この一言にやはり凝縮されていますね。この時に暫定で3チームを決定し、できればもう1チームを作りたいということにしました。実は塚本、戸口、藤王、宮木、飯島の5名だけの少数精鋭のみが出席して決められました。お知らせには「勝手に決められて迷惑だなどと言わずに名誉だと思って、よろしくお願い致します。」とありました。勿論、欠席者からは文句も反抗もありませんでした。フォンターナチームはこの時にメンバーが決まりました。齊木個人としても「多分、日高さんところも昨年と同じ構成で来るだろう。よしよし、条件は近いぞ、勝負!勝負!」とメラメラと闘争本能に火が付いてきたのですが、内心は「風が強かったらどうしようか・・・。」かなり不安ではありました。多分、だれも全日本が終わるまでは我々が日高さん達と良い勝負をするなんて思ってもいなかったと思います。実はこの時からクルーの練習計画を練りに練っていたのです。本当は微風になって軽い体重のメリットを生かせる様に神様にお祈りを始めていたのですがね。
6月には飯島さんから「国際セーリング競技規則」の購入の案内がありました。マイアミで戸口さん達が抗議を受けて失格になったこともあり、皆さん真剣に取り組んでいるんだなって思っていました。でも、結局、全日本で帆走指示書に従ったプロテストを出していなかったし、戸口さんもまたまたプロテストで失格になったりで、全然生かせてませんでしたね。今年の反省点の一つです。
6月からは名古屋の方々も参加して、ほぼ毎週の様に練習をすることになりました。名古屋から岩井さん、岡野さんも加わり気温の上昇と共に練習にも熱が入ってきました。6月末に全日本社会人ヨット選手権東地区予選があり、寺田さんが見事22艇中5位で予選通過となりました。この時点で今年はブラインドでは無く、社会人の方の全日本でがんばってもらうことになりました。また、当初はサイテドばかりと言う練習もありましたが、だんだんとブラインドの熱も入ってきて、サイテッドの人数が少ないのを心配することもありました。
さて、恒例の合宿の基本計画を立て始めたのが、7月に入ってからです。日程を8月18日?19日として、会場はいつものヤマハマリーナとヤマハ海の家としました。その合宿と二回目の全日本の打ち合わせを8月5日の練習後に浜松でビールとお食事付で行いました。この打ち合わせで、チーム編成を若干変更して4チームとすることにしました。ところが、練習に使える艇の2艇に対して4チームですので、練習は合同ではなくチームごとに計画を立てて行うことにしました。この時に決めました、米沢、大城、郷、篠原のAチームには波乱が待っていたのです。その後、波乱のAチームは郷さんが9月24日友人の結婚式に出席するため選手としてレースに参加出来ないことが判明し、本部に代理選手の参加許可をお願いしました。また、合宿では講習会を開催することにしましたが、その講習会をどの時間帯で行うかで皆さん悩みました。なにせ、夕食後ではお酒が入ってそれどころではないでしょうから、と言うのが一番の理由で二日目の朝食後に決定しました。
8月18日は恒例の浜名湖合宿です。福岡の篠原さん名古屋の新メンバーも加わり21名の参加で行われました。視覚障害者は8名、女性3名そして最高齢者は63歳(は)、最若齢者17歳の広範囲の方々の参加でした。艇はヤマハからフェスタ24を3艇借用し、ヤマハ23(コーラルリーフ)の4艇が練習艇そして運営艇1艇という体制で行いました。天候は晴れでしたが、練習を始めるころから風が上がり、各艇1ポイントリーフをしましたが、かなり風にあおられてしまいました。実は我々フォンターナには風が強すぎて正規のクルー配置では練習ができず、殆ど私、齊木が舵を握っていました。この時も心の中では全日本でも風が強すぎたらリタイアしかないと心に思っていました。そして、翌日はマリーナの勧めもあり、台風の接近のため練習は中止となりました。
また、初日の夕食はお酒を少し控えて(そうでない人もいたみたいですが)、8時から「初心者のための講習会」を行いました。お酒を控えたせいかどうか知りませんが、講習会の後は明け方近くまで騒いでいたとか、外のボードセーリングのボードを布団代わりにして寝ていた人もいたとかいないとか、かなり楽しい夜だったようです。翌朝は8時から2時間、中島量敏さんの「ルール講習会」を行いました。ほぅ、スタートのルールが変わったのだとやっと気がつきました。練習時間は少なかったですが、昼、夜ともかなり濃い合宿でした。ご苦労様でした。
8月末にはチーム名、全日本へ行く時の方法の計画やユニフォームについての検討に入りました。チーム名、ユニフォームは各チームに任せることにして、往復の計画については米沢さんが色々と心配をしてくれました。しかし、この米沢さんのAチームに波乱が起きました。なんと、9月8日(土曜日)の地区の運動会で米沢さんが「アキレス腱断絶!」全治2、3ヶ月と言うことです。全日本までは後2週間しかありません。あららら。篠原のS、郷のG、大城のO、米沢のYをとって命名されたチームSGOY(スゴーイ)はYが抜けまして、橋本のH、飯島のIに変わってSGOHIになってしまいました。でも、読み方は変わりないそうです。
そんなこんなで全日本に参加したのですが、浜名湖チームとしましては1位をENYA.に譲りましたが、2、3、4、5位を獲得でき、まあまあの結果ではないかと思います。これも皆さんのご協力と集中した練習の成果なのかも知れません。ご苦労様でした。
今これを書いていますのは10月30日ですが、11月3日には慰労を兼ねた懇親会が行われます。イタリアワールドへの参加のことや冬場の練習のことなんかも話題になるようです。目標はワールドでのメダルですかね?休みが取れるのかな?チームはどうなるのかな?来年に向けてまたまた楽しみですね。そうこうしていると、塚本さんから2002年9月か10月のプレ国体、2003年9月の国体の運営協力の依頼がきました。はいはい、なんでもお手伝いは致しますよ、2003年まで色々とありそうですね。あれ?2002年の9月はイタリアワールドでは????
来年も宜しく!ウッシャー!