活動報告 JBSA東京 2024年6月8日 あほうどり回航20周年記念
JBSAの村井です。6月8日に行われましたJBSA東京あほうどり回航20周年記念についてご報告いたします。(2024年6月21日)
JBSA会員の竹内誠氏の父、故秀馬氏から愛艇あほうどりがJBSAに寄贈され、艇を四国の今治から東京夢の島まで回航してからちょうど今年で20年になります。
これを記念誌、秀馬氏えの感謝と今後の安全を祈願することを目的として、6月8日(土)に記念イベントが行われました。
先ずは、この企画に当たり、調整・実施の労をとってくださったJBSA東京代表の殿垣内さんと副田さんに感謝すると同時に、協力してくださった多くの方々に御礼を申し上げる次第です。そして、回航メンバーの竹内さんと橋本さんが今回健康上の理由でいらしゃらなかったことが、大変残念であります。その後、竹内さんについては皆さん周知のように永眠されました。回航メンバーが全員揃って再びあほうどりの甲板に立つことはもうかなわぬこととなってしまいました。謹んでお悔やみ申し上げます。
日時 2024年6月8日(土)
使用艇 あほうどり
夢の島出航 午前9時 寄港11時
天候 晴れ
風 南3メートル
波高 50センチ
メンバー(敬称略)
サイテッド : 秋山、児玉、坂本、安西、福島、副田
ブラインド : 竹脇、小倉、内村、村井
—————————
記念行事は1部、2部、3部構成で行われ、1部 Aグループ 上記10名であほうどりを若洲沖の秀馬氏の散骨を行った辺りの海面に出し、献花。
2部 bグループ あほうどりが寄港したところで、Aグループと合流し、桟橋で記念撮影。
3部 Cグループ 新木場で、A・Bグループと合流し、居酒屋で記念パーティー。
という流れで実施されました。
Aグループである私は、開港メンバー、並びに他のメンバーと共にいつものバースからでなく、マリーナ正面の桟橋を降りてあほうどりに乗り込み、ました。
この日は記念行事ということもあり、児玉さんがあほうどりをマリーナ前に移動させて、メンバーがすぐに艇に乗れるように準備しておいてくれまし
た。
10年前2014年の2月に若洲沖で秀馬氏の遺骨を散骨した日も、児玉さんが先にマリーナに来て準備をしておいてくれました。この日は関東地方が大雪で、児玉さんが朝早くから艇の上にたくさん積もっていた雪を落としてくれていました。
それでいて、児玉さん自身は他に用事があり、準備のためにだけにマリーナに来てくれていたのです。兎に角火なりの大雪で、竹脇さんや内村さんも散骨に参加する予定だったのですが、雪のため家から出られないとのことで、ブラインドの参加が私ひとりだけになってしまった程です。私も先ずは自宅から最寄りの駅までいくのが大変で、タクシーを呼ぶにも来られるような様子でなかったので、普段夢の島にあほうどりに乗りにいくときは連れて行っていない盲導犬ゾディアックを伴って向かうことにして家を出ました。門の外には15センチは積もっている雪を前にしてゾディアックもこれで行くのといった感じで立ちすくんでしまっていました。明らかに嫌がっている様子のゾディアックに気合いを入れて、ズボズボ雪を踏んで駅までの道のりを滑って転ばないように気をつけながら行ったものです。普段なら15分から20分で着くところが雪のせいで30分以上かかりました。
ようやく駅に着いても、JRが動いていない。いつもならJRで池袋ないしは有楽町まで行ってそこから有楽町線で新木場に向かうのですが、それがだめ。あらかじめ電車の運行状況は調べて知っていましたが、全く動いていない。駅にも人がほとんどいない。私の最寄りの久喜駅はJRの他に東武伊勢崎線も通っており、こちらは遅れながらも動いているので、東武線の改札に入り、階段を降りてホームへ。ホームに降りる階段には誰かが雪を踏んで来た靴の裏側に着いていた雪の塊がところどころ落ちていて、私はそれを踏んで足を滑らせてしまい、転びそうになって、慌ててゾディアックの背中に手をついてしまいました。ゾディアックがいたので、転ばないですんだのですが、このとき手をついてしまったことで、ゾディアックに将来、年をとってからひょっとすると腰痛が出て来はしないかと、頭をよぎりました。このときゾディアックは3歳、そして今はもう14歳です。年のせいか、昨年秋ごろから、腰痛でが出ているのか、右後ろ足の動きが悪くなり、獣医さんで診てもらって痛み止めを飲むようになってから、もちろん以前の若いときよりはかなり歩くのが遅くはなりましたが、足の動きが回復して、元気です。ひょっとするとあのときのが影響しているのかも!!!
それで、東武線で、先ずは曳舟に向かい、そこで半蔵門線に乗り換えて、さらに永田町で有楽町線に乗り換え、新木場。児玉さんに途中電話を入れて新木場到着が待ち合わせ時間より1時間以上遅れる見込みであることを伝えると、雪で内村さんも竹脇さんも来れないので、ブラインドが村井だけなので、遅れても必ず来るように、と。そんなかんなで、ようやく新木場に着くと、竹内さんの青学のヨット部の仲間たち(そのうち一人はピンクキッスのメンバーの女性)が私を待ってくれていて、植物園の中を通ってマリーナへ向かったのですが、雪雪雪。
そんな10年前とは対照的に、この日は晴れて心地よくそよ風が吹き、海も穏やか。児玉さんも乗船して、他のメンバーと共に出港。ティラーを持つのは福島さん。コックピット左舷側には福島さんの他、安西さん、竹脇さん、小倉さん、秋山さん、右舷側には内村さん、坂本さん、児玉さん、村井、副田さんがコンパニオンウェーに。(間違っていたらごめんなさい、おおよその私の記憶です)皆和気藹々と談笑。私は、福島さんにトランスパックに参加したときのお話を聞かせ
てもらったり、内村さんから昨年2023年にヤマハの26に乗り変わったスピーディーブルーを関空マリーナから浦賀ベラシスへ回航してきたときのお話を聞かせてもらったりしてました。スピーディーの回航時期が20年前にあほうどりを回航してきたときと同じ5月ごろだったみたいで、このときもメイストームに遭遇し、田辺に寄港して荒天を回避したとか。また基本的に日中航行し、夜は港に入り宿にという回航だったので、竹内さんから大名回航だと言われたとか!(内村さん間違っていたらご訂正お願いします)
あほうどりは順調に進んで、若洲沖付近に到着。児玉さんがジブを上げようと発し、セールアップ準備。今日はベテラン揃い。するするとジブが上がり、エンジンを止めて、セーリング開始。艇速2・3ノットというところか。波がほとんどないのであほうどりが良い感じに滑る。
私はキャビンから献杯用に持参してきたスパークリングを持ち出し、ドックハウス左舷側のデッキに移動。お花を副田さんと児玉さんが配り、児玉さんのかけ声に合わせて、献花。このときフォグホーンを鳴らそうとしたようですが、不具合があったのかホーンは谺することなく、静寂のまま、献花が行われました。
私も献花し、さらにスパークリングの栓を抜いて海に注ぎ、そして、皆で献杯。
そのとき、10年前、竹内さんが確か「村井さんも来てくれているよ」とか言いながら、共に散骨したときのことを思い出していました。機走のまま、フォグホーンを鳴らし、海面は穏やかであるも、寒さで凍てつく海に、秀馬氏のお骨を一つ一つ丁寧に落とし海面に沈めました。また、あのときも、このときも、おそらく2005年のことになると思うのですが、秀馬氏が夢の島にきたときのことも。
9月の終わり頃だったのですが、その日は比較的風が強く、うねりが東京湾に入ってきていて、秀馬氏と竹内さんの妹さんらと共にアホウドリを出してセーリングしました。私がティラーを持ち、竹内さんがブラインドセーリング式にスキッパーをし、クルージングしました。6・7メートルぐらいの風があり、あほうどりがヒールし、私は緊張しながらティラーを握ってました。東京湾を眺めながら秀馬氏が戦前に航海用練習船日本丸に乗ったときのことや、戦時中、乗っていた輸送船が米軍の攻撃に遭い、二度沈没した経験があるなど。そのときのことをよくお話しして聞かせてくださりました。日本丸の17番の船室が秀馬氏が練習生のときに寝泊まりした部屋だったとか。(確か17番とおしゃっていたように記憶しているのですが・・)。小麦などを積んだ船で、神戸を出港して太平洋沿岸を航行していたときに機雷に当たり、船体にひびが入りそこから浸水し、積んでいた小麦が海水に浸り、その結果、小麦が膨張して鉄の船体をも膨らませて、ひびがさらに大きくなり、それで船長と相談して、船を岸につっこませ乗り上がらせ、沈没を回避した。それで積み荷の小麦は地元の人たちに持って行ってもらうことにしたところ、喜ばれたとか。
やはり輸送船で、ベトナム沖を航行していたとき、その日は魚雷攻撃があるかも知れないとの情報があり、それに備えて、脱出用のカッターを下ろしてロープにつなぎ、船の後方100から300メートルに流しながら進んでいたところ、夜間に魚雷攻撃を受け、船を放棄して、海に飛び込み、カッターまで泳いだ。そのとき、上着を着ていたが、泳ぐのに邪魔になり、その上着のポケットに入れていた奥様の写真を月明かりに照らして、しみじみ眺めてからその上着と写真を脱ぎ捨て、必死に泳いでカッターにたどり着いた。しかし、船長は来なかった。カッターに乗ったまま2・3日漂流し、ようやく日本軍の駆逐艦に拾われて助かったとか。大凡そのようなお話だったと思う。
そのとき竹内さんの妹さんがにこやかにもまた生きていてくれて良かったとばかりの明るい声で、「そうでなかったら私は生まれていなかった」とおっしゃられたのが印象的で、私の記憶に在り在りと残っています。
11時寄港。再びマリーナ正面の岸壁にあほうどりを寄せ舫い。ここであほうどりを背にして記念撮影。小柴さんや金子さん、盲導犬も加わり、周辺は一層賑やかに。岸壁から急な階段を女性の参加者が降りてくるとき、児玉さんが落ちないように気をつけと大声で注意を促していたのですが、その最後に「おち○○ないか」と。児玉さん絶好調。
記念撮影を終え、マリーナのオーナーズルームでしばし休憩。児玉さん、副田さんはあほうどりをホームバースに移動。
その後、一同、新木場駅に向かい、そこでパーティーから参加組と共に会場である干物屋(居酒屋)二階で祝宴開始。殿垣内さんの司会の元、大いに盛り上がりました。回航メンバーはもちろん、参加者全員が一言を発してました。坂本さんが竹内さんとの出会いや秋山さんが秀馬氏にお礼の手紙を送ったところ、あのような状況で出港するものではないと叱られたとか、一方、最近の新入会員の若い女性参加者が挨拶のの中で、「児玉さん好きです」との発言があったりで、爆笑に包まれていました。もちろん、その後の門前仲町では児玉さんご機嫌でした。児玉さんごちそうさまでした。内田さんありがとう!
あほうどり回航20周年記念の様子はここまでですが、秀馬氏、誠氏と竹内親子二代にわたってJBSAを支えてくれました。お二人とも、海、船への関わり方は異なれども、秀馬氏は職業として、真氏は大学のヨット部依頼ヨットマンとして活躍され、海の素晴らしさと怖さを知り尽くしたお二人であるからこそ、ブラインドにもヨットの楽しみを分かち与えてくださったと、感謝につきません。
最後にこの活動レポートを書くに当たって、秀馬氏が夢の島に来たのはいつだったかなあと私のパソコンの中を探索していたら、JBSAの10周年記念に当たり作成した文集(「風は誰にも見えない」 秋山さんのタイトル案が採用された)に秀馬氏が寄せた文章が見つかりました。文集作成に携わってもらった飯島さんのところに届いたメールです。以下に飯島さんから転送されたメール全文を掲載して、このレポートを終わります。これを見ると、秀馬氏が夢の島に来たのが2005年の9月となっており、秀馬氏はそのときは海が荒れていて出られなかったと書いているのですが、秀馬氏はひょっとするとあほうとりで東京湾をクルーズしたことを忘れてしまったのか、実際には先に私が記したように波風ある中海に出ています。
—————————
subject: [jbsaml:01002] 竹内秀馬様の手紙
Date: Mon, 19 Feb 2007 18:10:09 +0900
From: 飯島賢司
記念文集編集担当の飯島です。
今治の竹内秀馬様に記念文集をお送りしたところ、ご丁寧な手紙を頂戴し感激いたしました。
手紙全文をご紹介します。
拝復 春一番も吹き、漸く春の息吹を感じるようになりました。
この度はご丁寧に私にまで記念文集をお送り下さり有り難うございます。
JBSAの活動の内容については、愚息誠が帰省したときに断片的にですが聞いていましたので一応分かっているつもりでしたが、この度この文集を読ませていただいて、JBSAがどのような経過で今日あるものかがよく分かりました。また、JBSAをここまで育て上げられた皆さんの、この10年間の並々ならぬ献身的な努力の跡が読み取られ、これから更に大きく飛躍するものと期待しています。
ご存知のように私の愛用した「あほうどり」が、皆さんのお手伝いに参加できるようになった関係で、一昨年の9月25日に夢の島マリーナに初めてまいりました。折あしく台風17号が房総沖を通過直後で赤旗が降りず、久しぶりの「あほうどり」でのセーリングは出来ませんでしたが、竹脇さん始め大勢の方々に歓迎され、また、回航のとき今治~粟島間で同乗したメンバーとも再会できました。このとき、お会いした晴眼者は言うまでもなく、視覚障害者の方々の底抜けに明るい雰囲気に圧倒される思いでした。もちろん、元々積極的な人たちでしょうが、この明るさは海に出ることによって自ずと身につけられたものと思いました。
そしてこの日は私にとって終生忘れ難い幸せな一日になりました。
最後に愚息並びに「あほうどり」のこと宜しくお願いもうしあげますと共にJBSAの益々のご発展と無事故、ご安航をお祈り申し上げます。
以上取り急ぎ一筆御礼まで。 敬具
2007.2.16
竹内秀馬
報告書作成:村井