≪那智勝浦?下田≫ 2004年5月3?5月5日
5月3日(月)那智勝浦港。
早朝、竹内さんの携帯の目覚ましが鳴りました。民放のスポーツ番組のテーマソングです。ファイトが沸いてくるようなメロディーです。朝からやる気満々、目覚ましにはぴったりの音楽です。
そして竹内さんが起きあがり、刺し板を開けて外の様子を見に出て行ったようでした。
私はそのとき、早くも7時になってしまったのかと恨めしく思いながらも、他に誰もまだ起きてこないようだったので、皆が起きるまで良いかなと、そのままクォーターバースに横になって寝てました。
午 前7時過ぎ、皆が起き出しました。竹内さんが「4時半に起きて見てきたけど、晴れているよ。他の船はもう出港していったよ」と声を出しました。そこで私は 初めて竹内さんの携帯が鳴ったのが早朝4時半だったことを知りました。昨夜あれだけの荒波を越えて来て、疲労困憊していたのに、竹内さんはまだ薄明の中に 起きて、出航出来るかを確かめていたのです。
私たちは港に上り、先ず顔を洗ってからあほうどりの整備をしました。ビルジを抜いたり、燃料を買い増ししたり、「これで夢の島まで行けるよ」なんて言いながら出航の準備をしました。
私 が洗面を終えてあほうどりに戻ってくる途中、竹内さんと坂本さんに会いました。二人は「昨夜の波は俺たちでもそう滅多に会わない波だったよ。あのくらいの 波に会ったことはあるけど、そうある波じゃなかったよ。潮岬を越えてきたのは自慢できるよ」と話してくれました。そのとき私と一緒にいた秋山さんが「竹 内!あのジャッジは正しかったと思うよ」と言いました。
そのようにして出航の準備が整うと9時になってました。私たちはあほうどりの上で、コーヒーを沸かして、パンを食べて、朝食をとりました。
9時40分、那智勝浦港出港。
あほうどりが海を滑り出し、外海に入りました。うねりは多少ありましたが、昨日のような姿はありませんでした。それでも昨夜あほうどりが激しくパンチング を受けた辺りの海面に差し掛かると、その付近だけは他より高いうねりが立っていました。しかし、そこから先の海は凪いでいました。
私 たちは薄曇りの中、熊野灘を順調に航行しました。目指す先は、伊豆下田です。先ず、御前崎に向かう針路を取り、コンパス角度75度です。那智勝浦沖から潮 岬を見ると、潮岬から直接御前崎に向かう本船が走っていました。私たちはその様子を見ながら、潮岬と那智勝浦間をベアリングで角度を測り、予想現在地を海 図に記しました。那智勝浦が見えなくなると、和歌山県の新宮、三重県の尾鷲を目印に変えました。そして、一時間ごとに計測した値を海図に記録して、針路と 艇速を確認しながら航行しました。こうしていると、いかにも海を航海しているという感じがします。GPSがないころはこれが当たり前だったんだろうなあ、 と考えながら乗ってました。
出航して間もなく、海図を開いてこれからの航路の確認をしました。そのとき、竹内 さんが私に海図を触りながら説明をしてくれました。関空を出て大阪湾を南西に下って、紀伊半島の先端が潮岬。そこから本州を北東に上って行くと、和歌山県 の那智勝浦、新宮、三重県の尾鷲。潮岬から尾鷲沖までの沿岸が熊野灘。そして、大王先が南東に突き出しているところと、向かい側の愛知県の伊良湖岬とに囲 まれた入り江が伊勢湾。伊良湖岬から東海道を東に進むと浜松があり、さらに行くと御前崎、この間の沿岸が遠州灘。御前崎を越えて、石廊崎までの間の入り江 が駿河湾で、そこに清水港や沼津がある。そして、石廊崎を回り込んで入ったところが伊豆下田。
瀬戸内海を回航したときも同様に海図で説明してくれたのですが、こうすると、自分にもおおよそどのように進んでいくのか想像がつきます。
私 は地理があまり得意ではなく、というよりも、目が見えないと地図を手で触って全体を把握するのに時間がかかり、それが面倒で、地理が頭に良く入っていませ んでした。特に岬や湾など、海岸線の様子に関心を向けることがなかったので、こうして竹内さんが説明してくれたおかげで、日本の沿岸の輪郭がどのように なっているかが分かりました。
そして、海図を指で触りながら進路を追っていくと、熊野灘や遠州灘がどうして難所と言われているのか見当がつきます。太平洋からの影響を直接受けてしまう ところなのです。またNHKラジオ第2放送の気象通報で、潮岬や御前崎が必ず出てきますが、それらがいかに重要なポイントなのかも良く分かりました。自分 の頭の中に描いた下手な日本地図を思い浮かべて、山脈と沿岸を重ね合わせて考えると、それらの岬を基点に気象の変わり目であることが楽に想像できました。
NHKラジオ第2放送の気象通報は、以前ドイツ語講座の前に放送されていました。それで、私は気象通報を聞く機会がありました。そして、自分がヨットに乗るようになって、そのときドイツ語講座のついでに聞いていた番組がここで役立つとは思っても見ませんでした。
また、回航が終わってから梶浦さんに会ったとき、梶浦さんは竹脇さんからの回航速報メールを読んでいたらしく、「大変だったわねえ熊野灘。あそこは難所なのよ」と言って私に話しかけてきました。
お恥ずかしいことに私はそれまで熊野灘がそのように難所で有名なんてことは知らなかったので、家に帰ってから広辞苑で調べました。すると「熊野灘」は「古 くからの航行の難所」とされてました。また「灘」は「川のように流れの速いところ。航行の難所」と書かれていました。熊野灘、遠州灘、玄界灘、日向灘、ど うやら「灘」と付くところはどこも心して進まなくては行けない海域のようでした。
あほうどりは機帆走で順調にマイルを積み重ねていきました。風も良い具合に北東の風3?4メートルあったので、メインとジブをフルセールに張って船足を少しでも速めて進みました。というのも、この以後の天気が荒れてくるのが分かっていたからです。
前 線の移動に伴って、南から強い風が吹き込み、それに乗って湿った空気が入り、大雨になる。前線は九州・瀬戸内海を北上し、兵庫・大阪を通り、岐阜・富山・ 石川と進み、日本海に抜けると予報されてました。既に前線の影響で四国や九州では豪雨になっていました。そして、大雨・洪水、強風・波浪注意報・警報が出 ていました。私たちがいる和歌山県地方も、午後から雨が降り出し、風が強くなるとされていました。そして、翌日の天気は、その前線の影響で関東・甲信越地 方で大雨と突風に対する警戒が必要とされ、私たちが向かう先である静岡県地方の伊豆半島は、朝から雷を伴って雨が降り、風も強くなって山沿いでは大雨にな るとされていました。
午後2時、あほうどりは三重県の尾鷲沖を航行していました。風はまだ北東が吹いていまし たが、徐々に南に変わりつつありました。それでもそよ風が吹き、海面も穏やかな絶好のセーリング日和だったので、エンジンを止め、一時帆走をしました。空 には積乱雲が次から次へと流れていました。海を見渡すと、ところどころに鳥山が出来ていました。「あそこに魚がたくさんいるんだろうねえ!取って食べたら 美味しいだろうねえ」などと言いながら南西方向を見ると、どんよりと低く立ちこめた真っ黒な雲がありました。「あれがこっちに来ると嫌だね。きっとあれは 今瀬戸内海で大雨を降らせているやつじゃないかなあ?どこで降り出すかなあ」と私たちは話していました。
そして、ここから先はさらに沖出しして進むので、携帯の電波が届かないところに入るため、今の中に関係者に連絡を入れておこうということになりました。夕 方の定時連絡は、昨日串本を出るときにして以来行っていなかったのです。ですので、昨夜遅く勝浦に入ったことは知らせていなかったのです。それで、秋山さ んが回航本部の竹脇さん宅に電話をしたのですが、あいにく不在で連絡がつきませんでした。
午後4時過ぎ、遥か遠方に大王崎らしき岬が微かに見えてきました。
そして午後8時、あほうどりはチャート上、大王崎の沖合17マイルのところを通過しました。ここから先はいよいよ今回航の山とされる遠州灘に入っていきま す。風は既に南に変わっていましたが、まだ雨は降ってきていませんでした。そして、風も順風でした。
午後9時、私たちは「誰のときに振り出すかね?」なんて話しながらワッチの体制に入りました。そして、午後3時に一度行った給油とビルジを抜く作業を皆で再度行ってから、私と竹内さん、坂本さんがそのままデッキに残り、秋山さん、児玉さんがキャビンに降りました。
も う陸地の陰が見えないところを走っていました。それでも、灯台の灯かりが僅かに確認でき、それらを頼りにベアリングで現在地を測定していました。本船がた くさん行き来していました。本船が見えると、それがどちらに向かって進むのか目が離せませんでした。赤と緑に灯る航海灯を注視して、その灯かりの片方しか 見えなくなれば、本船が向きを変えたということになります。
竹内さんが坂本さんに、あほうどりが順調に御前に向かっているかを尋ねました。すると、坂本さんが「潮岬から御前崎に直接向かう本船の航路と那智勝浦を出 て御前崎に向かう本船航路の幅が徐々に狭まっているからこれで良いと思うよ」と答えていました。
5月4日、日付が変わって午前0時。
雨はまだ降っていませんでした。ワッチ交代となり、秋山さん、児玉さんが上がってきました。そして私は、竹内さん、坂本さんと下に降りました。そのとき坂 本さんからオイルスキンは着たまま休みに入って、と指示がありました。天候が悪化してきたときに直ぐにオールハンズで対応できるようにしておく必要があっ たからです。
午 前3時、私と竹内さん、坂本さんがワッチに入るためコックピットに上がっていくと、あほうどりは既に遠州灘に入り、浜松の遥か沖合20マイルのところを航 行していました。そして、6時間ごとの給油を行い、ビルジを抜いて、秋山さんと児玉さんがオイルスキンを着用したままオフに入りました。
雨 は降っていませんでしたが、風は大分上がって12?13メートルの追い風が吹き、波高が3メートル前後になっていました。あほうどりはクォーターでポー ト・ランニングしていました。そのときのローリングは、関空に向かうときに友ヶ島を交わしたときとちょうど同じような揺れでした。しかし、坂本さんが浜松 原発の明かりが波間におぼろげに見えると話していたときに、あほうどりが横波を受けて、大きくローリングしました。私はそのとき「ウオー」と言いながら ドッグハウス手前のフレームに掴まり、慌てて体をホールドしました。その際、坂本さんが「この辺りは何発かに一回、こういう波が入るから、リラックスしな がらも気をつけていてね!」と注意を促しました。すると、ティラーを握っている竹内さんが「この辺りは悪い波が立つところで、何人ものヨットマンが巻き波 にやられて命を落としているところなんだよ」と息を殺すようにしみじみと語りました。そして、竹内さんが海面を見渡して「大分黒くなってきたぞ。ジブを全 部巻き込もう!ジブにもうテンションがかかってないだろう。吹いてからだとコントロールが大変だから」と声を上げ、私も手伝って、坂本さんがジブを巻き取 りました。ジブを全て巻き込むと、船が安定したようで、先ほどよりローリングが落ち着きました。
あほうどりは サーフィングしながら快調に走っていました。ときおり顔に飛沫がかかりましたが、その潮気のせいで、坂本さんがくれた口の中のミルクアメが美味しく感じま した。「今、JBSAの浜名湖支部が活動している遥か沖にいるんだなあ」と思いながら、アメを頬張っていました。そして、この回航に当たって、飯島さんが 「その姿は見えないだろうけど、遠州灘を走るあほうどりを浜辺からJBSAの旗を力いっぱい振って応援しています」と言っていたことを、秋山さんが何度も 繰り返していたのを思い出していました。
午前3時40分、早めに対策を取っておこうと、竹内さんからオールハ ンズの号令がかかり、仮眠を取っていた秋山さんと児玉さんにも起きてきてもらい、メインをフルセールから一気にツーポンに縮小しました。坂本さんと児玉さ んがローリングするデッキに立ち、作業をしました。「これでもうすることがなくなっちまったよ」と竹内さんがブツリと呟きました。そして、秋山さんと児玉 さんにはオイルスキンを脱いでゆっくり休んでもらいました。
午前4時、NHKラジオ第1放送のニュースを聞き ました。天気予報を聞くためです。アナウンサーが、前線が通過して行った先で大荒れの天気になっていることを放送し、警戒を呼びかけていました。静岡県地 方では、午後から雨が降り風が強くなるとされ、天候の悪化がやや遅れたようでした。
空が白み始めましたが、ガスっていて陸地が確認できず、御前崎の陰を見つけることは出来ませんでした。それでも本船航路が大分狭まっていたので、順調に近づいてきていると確信していました。
竹 内さんが御前崎を交わした後の針路を坂本さんに聞きました。石廊崎を目指すにはコンパス角度が何度になるかを尋ねていたのです。坂本さんがキャビンに戻り 海図を確認して来ました。角度は御前崎を目指していたのと同じ75度です。そして、下田で休憩を数時間取ってから夢の島に向かうか、あるいはこのまま夢の 島に直接行くかを話し合っていました。
下田に昼頃入れれば、夕方4時に出発して、翌日の午前中に夢の島に到着することが出来る。下田に夕方になってしまうと、夢の島が5時過ぎになる。下田に入 ると、湾を出入りする分2時間ぐらい余計にかかる。夢の島に着いてから整備することを考えると、出来るだけ早く着きたい。それで、海図をもう一度見て、下 田到着の時間を計り直すと、夕方になってしまうようでした。そのため、このまま夢の島に直接向かおうという結論になっていました。
私はこの坂本さんと竹内さんのやりとりを聞きながら、天気予報でこれから一層荒れてくるとされているので、荒れる前に御前崎の漁港に入って、天候の回復を 待つのが良いと思っていましたが、今、遠州を走っていて、この様子なら夢の島まで一気に行けそうだなとも、一方で考えていました。
午 前6時、ワッチ交代となりました。遠くには御前崎らしき姿がありました。竹内さん、坂本さんから「もうすることがないからオイルスキンを脱いでゆっくり休 んで良いよ」とあったので、潮まみれになったジャケットとパンツ、長靴を脱いで、私のオフになったときの定位置であるフォクスルに横になりました。そし て、朝食の菓子パンを3人で食べました。
午前8時半、御前崎の沖5マイルのところを通過しました。その前後辺りから波がさらに高くなって来たようでした。
午 前9時20分、エンジンが突然停止しました。キャビンで休んでいた竹内さんと坂本さんがデッキに上がって行きました。そして、坂本さんが降りてきて、エン ジンルームを空けてエア抜きをしました。あほうどりを風上に立てて作業をしたのですが、向かい波を切るたびに、ハルに当たった海水がドーンと大きな音をた て、船体が上下に跳ね上がっていました。その後何とかエンジンを回復することができ、あほうどりは再び石廊崎を目指して進み始めました。
午 前10時、ワッチ交代の時間になりました。日中のワッチは4時間づつです。エア抜きをしてそのままデッキに上がっていた竹内さんと坂本さんから、私にその まま下にいて良いよと声がかかりましたが、私は「これはルーティーンだから」と言ってハーネスとライジャケを着用し、ライジャケのポケットにフラッシュラ イトを差し込んで、コックピットに上がろうとコンパニオンウェーから出ようとしたとき、竹内さんが「波が悪いよ、波が悪いよ!」と言って注意を促しまし た。そして、私が頭を再び低くした瞬間、あほうどりが大波をかぶって船体が大きく揺れ、飛沫が大量に飛んできました。それから私は慎重に足を抜いて、コッ クピットに深く座り、ハーネスをアイに繋いで、体をホールドしました。
外は雨がまだ降っていませんでした。で すが、浜松沖を走っていたときより、風と波が大分上がったようで、サーフィングするあほうどりに勢いが増したようでした。波に乗って走り、緩やかな坂を上 り、大きく左右にローリングしながらサーフィングする動きがダイナミックでした。「これはルーティーンだから」と言ってデッキに上がったものの、波を思い きり浴びたとき、体をホールディングすることに不安になりました。手を伸ばせばドッグハウス後方のフレームに届くのですが、手が直ぐ届く範囲にはジャムク リートぐらいしかなく、これといって掴まっていられるものがないのです。それで、「下にいても良いよ」と言われながら上がってきた手前、どのタイミングで キャビンに降りるかを図っていました。
オフになった児玉さんがコンパニオンウェーから頭を出して立ってまし た。長時間オイルスキンを着ていたため、汗で蒸れてしまったので、ジャケットを脱いで外の風に涼みに出てきたのです。そして、児玉さんは携帯をチェックし ていました。その中に家からメールが届いているのを見つけました。それを開くとそのメールは奥さんからで「無事に帰ってきてください。安全をお祈りしてい ます」と書いてありました。私たちはそれを聞いて「なんと優しい言葉じゃない」と言って、うらやましがっていました。すると、児玉さんが再び「出かけると きは『良く働いてきてください』と言われたんですよ」と、にこにこしながら嬉しそうに家に電話を入れていました。それから児玉さんは「それにしてももの凄 い波ですよねえ」と感嘆しながら、その様子を写真に撮っておこうとカメラのシャッターを切っていました。
以下の写真は、あほうどりが追い波を受けてサーフィングしているときに前方の様子を撮ったため、波が向かってくる様子ではないので、それほど波が高くなっているようには見えません。
その頃は、南の風15?18メートル、波高が5?6メートルぐらいになっていました。実際にはその後、状況はもっとシビアーになったのですが・・・。
海 はそのように時化ていましたが、それでもあちらこちらに鳥山が出来ていました。藻も流れていました。漁船が一艘、走って行きました。それを見て「漁船が出 ているくらいだからそれほどじゃあないんじゃない。あの鳥山の下に魚がたくさんいるんだろうね」なんて話したりしていました。すると、ヘリコプターが一機 上空を飛んでいくのが見えました。「ひょっとしたら捜索でもしてんじゃないんだろうね」と笑っていました。竹内さんがヘルムススキッパーをしながら海面の 藻を見つけて「絡むなよ、絡むなよ!」と声に力を込めて念じながらあほうどりを走らせ、大波を越えて行きました。
児 玉さんは、波の様子を撮った後、キャビンに潜っていきました。そして私も、「外の空気を吸ったので、下に降りようかな?」と言って立ち上がろうとしたので すが、坂本さんが、私が上にいるとじゃまになると思って下に降りようと言ったのかと気を遣ってくれて、「ここに座っていて、良いよ!」と声を掛けてくれま した。それで、私は退散するにも退散出来なくなってしまい、再び降りるタイミングを探ることになってしまいました。
その後で、竹内さんと坂本さんにそのときの話をしたのですが、「あのとき波が大分あったので、体をホールドするのに適当な掴まるところがなくて・・・」と 私が言うと、坂本さんは「じゃあ、あれは自分で降りようとしてそう言ったんだ」と分かってくれたようでした。すると竹内さんがすかさず「確かに掴まるとこ ろがないよね。東京に帰ったら直ぐに付けよう」と続けました。それで、私が「もうこんなに長いクルージングすることもないから必要ないよ」と返すと、竹内 さんは「これから初めて乗る人もいるから」と言って、早速付けようと声を上げてくれました。私は、それを聞いて大変嬉しく思いました。これから入ってくる ブラインドの人たちのことも考えて、そうしようと言ってくれているのです。
午 前11時過ぎ、私はキャビンに降りました。秋山さんがクォーターバースで、児玉さんがフォクスルで、それぞれのオフのときの定位置で休んでいました。私の オフの定位置もフォクスルなのですが、ワッチが児玉さんとは違うので、通常は児玉さんとかち合ってしまうことはありません。ですがそのときは、私は本来 ワッチなのに下に降りている訳ですから、取りあえず空いている中央のダブルバースに入りました。
あほうどりのエンジンの辺りから油の臭いがしていました。だけど、5月2日の晩に那智勝浦に入るときにスタンチューブを焦がしていたので、そのゴムの焼けた臭いがまだ残っているのかと思い、油との区別がつきませんでした。
上では竹内さんと坂本さんがなにやら話しているのが聞こえていました。なぜこの時期に回航をすることになったのかが話題になっているようでした。その後し ばらくして、坂本さんが降りてきて、下田に入ることになったからと告げにきました。そして、ローリングが先ほどより激しくなったのは、駿河湾のだいぶ内側 に入ってしまったので、それで沖出しすることになり、今アビームで走っているからだ。だから心配することはない、と教えてくれました。
実 は、ワッチを変わったときにうまく伝達出来ていなかったせいか、御前崎を交わしてからコンパス角度60度で1時間ほど走ってしまっていたのです。本来、御 前崎から石廊崎までも、那智勝浦から御前崎までと同じコンパス角度75度のまま走らなければならなかったのですが、1時間ほど60度で進んだために、その 分駿河湾の内側に入ってしまったのです。
それで、60度で1時間走ったことを知らなかった竹内さんが、波勝崎を石廊崎かと見間違えて、坂本さんと賭をしたのです。坂本さんは岬の形が違うので、石廊崎ではない、波勝崎だと主張したのです。
結局、それが波勝崎だということが分かり、駿河湾のだいぶ内側にきてしまったことに気づき、沖出しを始めたのです。波勝崎が直ぐ左手側に見えていました。
正午過ぎ、坂本さんが石廊崎が見えてきたよ、と上から大声で教えてくれました。秋山さんと児玉さんがバースから起きて、上に上がって行きました。秋山さんは「油の臭いがきつくて眠れないよ」と言って、渋い顔をしてデッキに出て行きました。
午 後0時半、あほうどりのエンジンが突然停止しました。坂本さんが足早に降りてきて、エンジンルームを開けていました。「エンジンが吹いて、ガスっている。 サーフィングしながら来たから、スクリューが空回りして、エンジンの回転数が上がったからだ。今開けてこれで冷えたから、このままかければかかると思う よ」と言って、ビルジとエア抜きをして、給油をしました。そして、再びあほうどりは石廊崎に向かって進み始めました。
石 廊崎周辺は波がとても悪く、あほうどりのローリングが一層厳しくなりました。午後1時半、坂本さんが一度下に降りてきました。そして、坂本さんはソーセー ジをかじりながら、私に「なにか食べる?」と勧めてくれました。ですが、私はそれほど食欲がなかったので断り、今どの辺りまで来ているのか尋ねました。す ると坂本さんは「もう近くまで来ているよ。後30分か1時間で石廊崎を回航出来ると思うけど・・・。だけどこれは僕の希望的観測!」と、いつもの明るい声 でそう言ってコックピットに戻って行きました。
坂本さんが上に上がって間もなく、あほうどりはさらに激しく横 波を受けるようになりました。そして、開いていたコンパニオンウェーのハッチから海水がばしゃばしゃと音を立ててかなりの量が降って来るようになり、キャ ビンを濡らすようになりました。そして、何度目かの横波がコックピットを襲ったとき、ティラーを持っていた竹内さんのライフジャケットがいきなりボーンと 膨らみました。ドドーンと入ってきた海水の圧力か、それともどこかにぶつかったショックで膨らんだのか分かりませんが、皆一瞬何が起きたのかとびっくりし て、膨らんだライジャケの間から首を出して呆気にとられている竹内さんの顔を、ただただ見ているだけでした。竹内さんは、向かって来た横波を避けようと、 巻かないと思って落として行ったら、その波が直前で巻いて波を浴びてしまった、と言ってました。
その後もコン パニオンウェーから海水が何度か落ちてきました。また、横波がハルに当たっては、ドスンと鈍い音を立てていました。ですが、竹内さんが波を刺しに行ってい るのが下にいても分かりました。しかし、エンジンが熱を持っているようで、ダブルバースにいる私に油の臭いと熱気が伝わっていました。その熱気を冷ますか のように、開いているコンパニオンウェーから時折風が吹き込んでいました。そして一度、あほうどりが左右に大きく船体を振って、一瞬転覆するのではないか と思わせるような場面がありました。しかし、これまでの航海であほうどりが26フィートと小さいながら腰の強いことが分かっていましたので、私は大丈夫と 信じて乗っていました。
午後2時過ぎ、あほうどりは石廊崎を回航し、下田港へのアプローチとなりました。あと 1時間ほどで下田にへ着けそうなので、ここで秋山さんが停泊地である下田ボートサービスの伊藤社長に電話を入れることにしました。電話に出たのは奥さん で、「この吹いている中、よう来ました。バースは空けてあるから、十分気をつけて来るようにね!」と、心配顔で注意を促していたようでした。
そ の後、あほうどりは相変わらず横波を受けてローリングを続けながら、ようやくの思いで下田港に到着しました。港内に入ってメインセールを降ろし、桟橋に着 けようと機走だけで走り始めました。正にそのときです。エンジンがまたしても突然停止してしまいました。それで、慌ててメインを上げなおし、セーリング で、桟橋に既に舫われていたヨットに無事に横抱きさせました。午後3時半になっていました。
あほうどりを横抱 きさせてもらったティンカーベルという艇名のこのナウティーキャットの家族がその様子を見ていて、「降ろしたセールをまた上げ直していたので、どうしたん だろうって見ていたんですけど、大変でしたねえ!」と言って、私たちに温かいコンソメスープを差し入れしてくれました。
そして間もなく雨が降り出してきましたが、私たちはあほうどりのコックピットにキャノピー用のオーニングを掛けて、コンソメをすすりながら無事に着いたことを喜び合っていました。
携 帯の着信履歴を見ると、あちらこちらから電話が入っていました。秋山さんが竹脇さんに電話をする一方、竹内さんがお父さんに下田に入ったことを報告してい ました。すると、お父さんから「どうして御前に入らなかったんだ」と開口一番言われてしまったようです。串本に入って以来、相当お父さんに心配を掛けてし まっていたのです。後でお父さんが「串本で止めておけ!と言っておけば良かったと悔やんだ」と言っていたそうです。
竹脇さんも私たちのことを、夜も眠れないほど相当案じていたようで、飯島さんといつ保安庁に連絡をするかを話し合っていたそうです。竹脇さんは全員の声を聞きたいと言って、私たち一人一人と携帯で話し、全員の無事を喜んでいました。
それから秋山さんが白子さんに電話をしました。この日東京では、かなりの強風だったようで、30メートルにも達する風が吹いたとされていました。また、秋 山さんの携帯に安西さんからの着信が残っていました。安西さんは連休の後半が空いているとのことだったので、回航が始まるときに、下田から乗ったらと誘わ れていたからです。秋山さんが電話を入れたところ、安西さんはそのとき三浦の長浜で自分のディンギーのペンキ塗りをしていました。秋山さんが「これから来 ない?」と誘うと、安西さんは何とこれから電車の時間を調べて下田に来てくれる、と言うのです。
下 田には他にもヨットが何隻も避難していました。児玉さんがその中に夢の島にいるヨットを見つけ、その船の様子を覗いて戻ってきました。オージーガールとい う艇名のヨットだそうで、その船の一人が『オールドヨットマンのソロ航海記』(竹内秀馬氏著)をデッキに座りながら読んでいて、私たちの方を指差して「あ のヨット、似ている」と言ったそうです。そこで児玉さんが「本物のあほうどりだよ!って言ってやったら、びっくりしてましたよ」と、うれしそうに笑ってい ました。
そして、私たちはあほうどりの整備をして、ボートサービスの伊藤さんに紹介してもらった宿に向かいま した。そのとき、伊藤さんに明くる日の天候を聞くと、「明日はそうでもないみたいだよ。西が吹くって」と教えてくれました。この言葉が次の日、出るか出な いかを惑わすことになったのです。
宿に歩きながら、竹内さんに「あの波の中で、船をどっちに向けるか迷うで しょう?」と尋ねると、竹内さんは「そりゃあ迷うよ。一度海水がたくさん入ってきたことがあったでしょう。あのとき、巻かないと思って落として行ったら、 直前で巻いたんだよ。刺して行くと、後で体勢を取り戻すのが大変だから落として行ったんだけど、あそこで巻いてからは刺しに行くことに決めたんだよ。あの 波で俺が艇速を落としてしっかり波に乗って行ったから、キールがしっかり刺さっているぞって感じだったでしょう」と、半ば興奮しながら回顧していました。 すると、坂本さんが「あれはハッチに刺し板をしておくべき状況だったね」と付け加えました。
こうして、私たち は今回航で初めて畳に上がることができたのです。民宿だったのですが、温泉にゆっくり浸ることが出来ました。そして、外に夕食に出かけました。そこは天ぷ ら屋なのですが、宿泊している宿の女将の息子さんがやっている食事処でした。連休の最中に当日宿を探すなんて無理なときだったのですが、その民宿は板さん が休みを取っていた関係で客を取っていなかったのです。そのため空いていたのですが、宿では食事が出せなく、息子がやっている店を案内してくれたのです。
私 たちは、金目鯛の刺身やら天ぷらやらを前にして、乾杯をしました。それは大いに盛り上がりました。竹脇さんから再度電話も入り、携帯の向こうで大変喜んで いました。そのとき「明日は北東が強く吹くから、上りになるし、止めておいたら」と竹脇さんから話があったことを秋山さんが紹介しながら、明日はどうする か、という話題になりました。「北東かあ!上りだなあ。だけど地元の人は西だと言っているしなあ」と言いながら、翌日は早朝に出て直接夢の島に向かうこと になりました。そして安西さんから、下田に11時に到着すると連絡が入りました。
宿に戻ってくると、午後10 時を回っていました。布団が敷いてあり、皆直ぐに横になってしまいました。それでも竹内さんは安西さんが来るからそれまで少し寝て迎えに出ると言って、 真っ先に寝ました。他の人も安西さんを迎えようとがんばっていたのですが、4日ぶりに寝る畳と布団の心地よさに負けてしまい、結局眠ってしまいました。私 もがんばっていたのですが、疲れからかそのまま朝まで寝てしまいました。竹内さんは一眠りして目が覚めたら11時半になっていたようです。すぐに飛び起き て安西さんを探したら、安西さんは案内された別の部屋で一人淋しくビールをちびちびやっていたようです。それからしばらく、二人でしんみりと飲んだそうで す。安西さんごめんなさい。
5月5日(水)
午前4時半、竹内さんの携帯の目覚ましが鳴り出しました。いつものスポーツ番組のテーマソングです。そして、皆起きて出発の準備をしました。安西さんも加 わって、6人が集まりました。安西さんがそのとき、にこにこしながら「久しぶりに荒れた海に乗りたくて、来てしまいました」と挨拶してました。
竹内さんが携帯とパソコンで気象情報を集めていました。予報では竹脇さんが言うとおり、関東地方では前線の影響が残り、北東の風が強く吹くとされていまし た。竹内さんは「地元の人が西がそれほどでもないと言っているのをどう見るか?」と渋い顔をさせていました。そして、出発をぎりぎりまで遅らせて、6時の NHKの天気予報まで待ちました。ですが、詳細な報道はありませんでした。
午 前6時過ぎ、私たちは港に向かいました。すると風はほとんど吹いていませんでした。これなら行けるね、とあほうどりに乗り込み、エンジンを起動させて、横 抱きにしていた舫を解きました。そして、隣の船から離れて港の出口に向かい始めたとき、エンジンがいきなり止まってしまいました。坂本さんがすかさずエン ジンをチェックしに降りると、「油が漏れている。今日は出られない。戻ろう!」と下から声を上げました。エンジンルームを覗くと、ビルジでなく明らかに油 が漏れて貯まっていたのです。満タンに入れ直していたはずの燃料も、タンクの半分にまで減っていました。それでもエンジンをかけるとなんとか動いたので、 先ほどとは反対側の岸壁に着けていたヨットにあほうどりを横抱きさせることが出来ました。そうこうする中に、北東から突風が入り始めました。竹内さんが 「これは出るなということだったんだな」と、ぽつりと呟きました。そして、あほうどりにオーニングをかけて、ボートサービスが開くのを待ちました。その間 も、竹内さんと坂本さんがエンジンルームを覗いて、どこが悪いのか探していました。燃料ポンプの辺りから油が漏れているようでした。
午 前8時、昨日のボートサービスの伊藤社長が来ました。伊藤さんは、開口一番「ごめんねえ。天気が全然違っていたね」と発しました。そして、エンジンを見て もらいましたが、直ぐに直りそうな故障ではないことが分かりました。それでもボートサービスにある持ち合わせの部品で応急処置が出来そうであったため、何 とか今度の週末には間に合う、とのことでした。
せっかく安西さんに横浜から来てもらって、人材がパワーアップしたのに、安西さんはあほうどりにほんの一瞬乗り込んだだけで終わってしまいました。
これで回航パート2は終わりです。今回航は当初の計画にはなかったパート3に入ることになり、週末5月8日(土)、9日(日)に持ち越しになってしまいました。
私たちは、あほうどりの修理をボートサービスにお願いして、児玉さんが下田に立ち寄る際に馴染みにしているというウナギ屋の「小川屋」で、昼食を食べました。そして午後、踊り子号で帰路につきました。
踊 り子号で下田を出ると、私の隣に座っていた竹内さんの携帯が鳴りました。この回航が順調に進んでいれば、この日あほうどりが入っていたはずの浦賀ヴェラシ スマリーナのハーバーマスター・千葉さんからのようでした。ヴェラシスの千葉さんは、関空マリーナの岸本さん同様、ご厚意であほうどりをしばらく係留させ てくれると申し出ていただいていたのです。そのとき竹内さんは、開口一番「地獄のような回航だった!」と発声していました。
そして、私の向かい側に座っていた安西さんが、窓の外を見て「うわあ、剃刀のような波だ!」と呟いていました。